ぼくのQOL向上戦争

ぼくはぼくのために生きる。

コミュニケーション能力の鍛え方

キュウです!

 

長らく更新がストップしていた。最後に書いたのが3月の頭だったので、気づけば2.5か月も経っていたことになる。時の流れというものは恐ろしく早いもので、自分としてはほんの少しサボっただけのつもりの中、こんなにも進捗が滞ってしまったのである。こうして人と人との差は拡がっていくものなのだなあということをヒシヒシと感じた。

・・・と、noteと同じ書き出しで始めてみた。(笑)

 

僕が久しぶりにブログを書いてみたいと思った(note風に言えば"心のエネルギーが湧いた")のは、良い本を見つけたからである。

 

 

 

何を見つけたかと言うと、コミュニケーションに関する本である。

 

特に素晴らしいノウハウが書かれているわけでも、これを実用すれば何でもかんでも他人とうまくいく、というものでもない。ただの本だ。

 

が、これを読んでこれは子供に読ませたい、と思ったのである。

 

自分の備忘も兼ねて、なぜこの本が良かったと思うのか、書いてみることにしたというわけだ。

※最近、文字数を多くすると自己満足度は増すわりに、労力的には辛いということが分かったので、簡潔に行かせて頂く。

 

1. 具体性

この本の良いところは用例がふんだんに使われているところだ。こう言われたらああ言え!のような簡便な内容であるため、非常に頭に入ってきやすい。この本が優れているのはたまに「こう言われたらああ返せ。そしたらこう来る。そこでこうだ!」みたいに先の先まで書いてあることだ。何だか攻略本みたいで僕は勝手にわくわくしたのだw

 

上記の利点は下の2.とも繋がる。

 

2. イメージのしやすさ

イラストには人の表情(相手が不機嫌、辛そうな表情、自分はすごく言い出しづらい・・・etc.)も描かれていて、場面もイメージしやすい。つまり(見開きで一場面なので)一ページ15秒ぐらいで読める。その後注意事項や1.で書いたような発展編の文章が3行続く程度だ。

 

1.2.と併せて、具体的でイメージがしやすいというのは、分かりやすさだけが利点ではない。もっと良い点は、「とっさの場面で言葉が出てきやすくなる」ということだ。

 

そもそもコミュニケーションは誰かとするもので、急に発言を強いられたりとっさの返しがその後に響いたりと、けっこう瞬発力的なものが求められる。ある意味スポーツだ。

 

そんな中、頭の中で事前と相手への返し技のイメージをボンヤリとでも持っていられることは、実はすごく大きいことだと思うのだ。

 

学校のテストや受験を思い出して見てほしい。時間が制限された中で(目の前で即答で返事を求められる中で)適切な答え(言葉)を瞬時に考えて回答する(発言する)ことはけっこう難しいものだった。そんな中、何が役に立ったかと言うと、そう、反復と刷り込みである。

 

たしかあの時は、

①覚えやすい形で

②どれだけたくさんのことを

③瞬時に引き出しから出せるように

持っておくのか、ということが勝負を分けたのだった。

 

というわけで、ここで初めてタイトルに繋がるわけだが、僕なりに10年ほど真剣にコミュニケーションについて考えた結果の結論は、「コミュニケーションは先天的な才能ではなく、鍛えられる。その方法は、反復と刷り込みだ」というものだ。

 

ただし、ある程度の型を把握した上で量をこなさなければ意味が無い。で、以下も追加。

 

3. 用例が多い

まるで単語帳である。大百科とはよく言ったものである。これを全部できるようになればかなりの場面にうまく対応できるようになるはずだ。とはいえたぶん全部マスターしたらコミュニケーションの鬼が世界中で溢れるはずだ。が、まあそんなに簡単ではない。地道にコツコツ、用例を脳に刷り込んで行こうと思う。

 

ちなみに、子供に読ませたいと思ったのはこの用例の多さがポイントであった。興味が湧くと同じ事をずっとしていられるという天才的な才能が、子供にはある程度備わっていると思う。興味が湧きさえすればだが、ずっと読ませていれば良い。大人ですらできないコミュニケーションを子供がマスターしたら・・・。そのままコミュニケーションの鬼状態でクラスでポジションを確保し続けて大人になったら・・・。考えるだけでわくわくしないだろうか。しないか。

 

 (今回買ってとても良かった本)

 

 

 

(コミュニケーションと言えばこの本も良いのでついでに紹介)

 

次回はコミュニケーションの達人、僕の母から学んだコミュニケーション術を自分なりに考察してみようと思う(実はこっちを先に書こうと思っていたのだが、本の紹介が先に立ってしまった)。

認知的不協和の好例を見た話

キュウです!

 

ちょっと面白いことがあったのでブログを更新。

 

僕はテレビをあまり見ないのだが、どうやらニュースで議論が議論を呼ぶ話が流れていたようだ。

 

  

ちょっとググってみると(興味は無いので真偽は分からないが)会田誠さんという方の美術講座で嫌なものを見せられた女性が訴訟を起こしたというものだった。こんなクソどうでもいいことで他人を訴える暇人というものがいる日本は平和である。

news.nifty.com

 

 

最初に僕が思ったことは、「ああ、こういう人いるよね」だった。僕の周りにも数人いるけど基本的に距離を取っている人種たちである。こういう人には何を説明しても無駄で、単に付き合いを避けるべき人たちだと思っている。

 

認知的不協和とは?

話は少し変わり、認知的不協和という心理学用語をご存知だろうか。Wikipediaによれば、以下の意味だそうだ。

人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、自身の態度や行動を変更すると考えられている。

ja.wikipedia.org

 

簡単に言えば矛盾する2つの認知があって、それをうまく処理しきれずにある方向に思い直すという心理的な逃避行動(防衛機制)の一つで、この場合も同じ心理的な変遷がこの女性の中であったものと思われる。

 

こうなっては基本的にその人の思考は(一人では)変えられないのが厄介なところである。なぜなら「ワタシガタダシイ」とか「ヨノナカガマチガッテイル」というのが認知的不協和を起こすタイプの人間の思考の根本にあるからだ。

 

僕が言いたいこと

…とまあ批判記事のようになってしまったが、僕は別にこの女性一人を責めたいわけではない。というのも、こういう人はたくさんいるからである。そもそもこういう救いようのない思考の人の数が少ないのであれば世の中もっと良くなっているはずで、そうでないからこそ、世の中なかなか良くならないのである。

 

僕らが考えるべきは、 ”芸術がどうあるべきか” とか ”表現の自由がどうあるべきか” とかいう話ではなく、どうしたら「あちら側」の人間にならずに済むのか?どうしたら「あちら側」の人間に巻き込まれずに人生を過ごして行けるのか?ということだ。

 

もっと言うと、僕らの人生は必然的に、突然知りもしない女性に痴漢だ強制わいせつだと騒がれたり、関係ない上司の失敗をあいつのせいだと責められたりするリスクがある。究極的に言うとそうしたリスクは100%排除するのは非常に難しい。結局人生なんて運ゲーなのか…と落ち込まないために、僕らはこのリスクを低減させていく必要があるのだ。

 

どうしたら「あちら側」の人間にならずに済むのか?

さて、まず真っ先に避けるべきなのは、「あちら側」の人間になってしまうことだ。「あちら側」に行ったら最後たぶん帰って来られない。あまり人間の思考と言うものは変わらないし、変わったとしても不可逆的(正反対には変わらない)だからだ。

 

【ご参考】「あちら側」の人間と言うのは他人の足を引っ張り、「他人の道徳的不正を罰することで快感を覚える」人種である。こうなってしまったら戻れない。「正義は最大の娯楽」だからだーーーーー。

 

※例①フェミニストが過剰なまでに男性を叩くのは「正義は最大の娯楽」の例の一つだ。

※例②非モテ男性が世を恨んで事件を起こすのは認知的不協和の例の一つ。どうしても ”世間” が許せず誰でも良いから事件を起こしたくなってしまうのだ。

 

 

では、どうすればあちら側の人間にならずに済むのか。

 

月並みで申し訳ないのだが、高い目標を持ち、それに没頭することが大事なのではないかと思う。上の例で述べたフェミニストなんかも、男性を叩くことに並々ならぬ決意と没頭を見せているものだが、別に高い目標があってそれに没頭しているというわけではない。

 

自分のプロダクトを死んでも作ってやるとか将来絶対に世界に出て働いて稼いでやるとか、彼女を死んでも幸せにしてみせるというような高い目標を持った人は他人を叩く暇なんかたぶん無いし、そもそも他人に興味が発生しないものだと思う。やりたいことが明確でそこだけを見ているので、例え変な写真を突如見せられるという直接的な被害があったとしても(ショックは受けるかもしれないが)そのことは自分の中での優先度が低く、わざわざ訴訟を起こすとかいう面倒なことは起こさないと思うのだ。

 

とはいえ、本当に自分が「あちら側」ではないのか?というのをどう判断するのか分からなくなってしまう時が来るかもしれない。自分がいつかクソジジイになって思考が固まって暇になったら他人叩きを始めてしまうかもしれない。たぶん、その時に自分に問うべき問いは、「自分に嘘をついていないか?」「自分に言い訳をしていやしないか?」である。

 

自分に言い訳をしてやりたいことを封印していないか?

自分に嘘をついていまの現実を他人のせいにしていないか?

自分に言い訳をして他人を叩くことを正当化していないか?

 

 

“自己責任論” に潰されないために

最後に一つだけ補足したい。

 

僕も含め大半の人間は心が弱い生き物だ。現実世界で嫌なことが起こったら本の世界に入り浸ったり、トイレに籠ったり、カラオケで叫んだりする等、何とかして心を保つ方法を持っている人もいるが、そうでない人もいると思う。

 

そんな人が「いま起こっていることは自分のせいで、この感情を他人のせいにすることは認知的不協和で、それは良くないことで、…」と考え始めてしまうとそれもそれで相当に苦しいことになると思う(僕も基本は自責思考なので上手くいかないと自分を責めてしまう)。

 

そんな人が考えるべきは、「他人のせいにするのは最終手段」と思っておくことなのだと思う。それは “絶対に” ダメだと思ってしまうと苦しいので、他人のせいにして逃げることを手段として確保しておくことは、それはそれでありなのだと思う。とはいえ、厳しいかもしれないが、まずは上に述べたようにある時は現実を改善できる方法を考えて実行したり、カラオケで叫ぶ等の自己救済策を持つように努力したりするのが先決と個人的には思っている。

担々麺まとめ

キュウです!

 

これは単なる纏めです。自分の備忘のためです。

が、同時に誰かの参考になれば幸いです。

 

ある時某有名ツイッタラーに担々麺が好きだと漏らしたところ、良いお店を教えてくれた。それをツイートしたところ他にもドシドシ情報が集まってきたのである(主に↓ツイートの返信欄ご参照)。

 

 

Twitterしゅごい。ネットが発達しすぎてどのお店が本当に美味しいのか分からなくなる現代、口コミは神である。

 

というわけでせっかくなのでゆるゆると全店を回ってみることにした。

仕事頑張る自分へのご褒美というわけである。

 

 

  

 

 

 

 

取り敢えず皆さんに教えてもらったのは13軒。まだまだご意見募集中。

ツイート見れば分かるが、 " #キュウ担々麺 " ということでいつでもTwitterで検索をかけられるようにもしてある。

twitter.com

 

以下、ただのお店纏め(自分用メモ)。なお注意点:

①土日と平日で営業時間が違う場合は早く締まる方を書いてます。遅い時間はどうせ行かないので。

②複数店舗ある場合は僕が行く可能性の高い場所で書いてます。基本は都心に近くて電車の便が良いところ。

③ラストオーダーはだいたい30分前、たまに夜で1時間前もあった。

④間違いはご勘弁。

 

1. ほおずき

【場所】中野駅北口徒歩7分

【営業時間】11:30-22:00

【定休日】無休

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2. 楊

【場所】池袋駅西口徒歩3分

【営業時間】11:30-23:30(平日は15:00-17:30昼休み)

【定休日】無休

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3. 阿吽

【場所】湯島駅5番出口徒歩2分 / 田原町駅3番出口徒歩1分

【営業時間】昼/11:00-15:00(湯島→平日は-14:30)、夜/17:30-21:00(湯島→平土は-21:45)

【定休日】火曜日(祝日なら営業、翌日休)

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4. 希須林

【場所】赤坂見附駅徒歩3分 / 表参道駅徒歩2分

【営業時間】昼/11:00-16:00(表参道→-14:30)、夜/17:30-21:30(表参道→-22:30)

【定休日】年末年始のみ

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5. タンタンタイガー

【場所】蔵前駅浅草線A1出口より徒歩3分 / 中野駅北口徒歩10分

【営業時間】昼/11:00-15:00、夜/17:00-22:00

【定休日】年末年始のみ

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6. 美華園

【場所】新橋駅東口地下街

【営業時間】11:00-22:00(月~木→-22:15、金→-22:30)

【定休日】無休

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7. 頤和園

【場所】虎の門駅11番出口徒歩2分

【営業時間】昼/11:00-14:30(月~金→-15:00)、夜/17:00-21:30(月~金→-22:30)

【定休日】無休

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8. よかろう

【場所】虎の門駅から270m

【営業時間】11:00-22:00

【定休日】記載無し

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9. 雲林坊

【場所】①秋葉原・神田駅から徒歩4分 / ②神田駅南口から徒歩3分 / ③九段下駅から徒歩2分

【営業時間】①②11:00-22:00(土日祝は21:00)、③11:00-21:00(月~金→-23:00)

【定休日】①無休、②日曜、③日祝(不定

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10. 志那麺 はしご

【場所】銀座・日比谷・有楽町駅から徒歩2~5分

【営業時間】11:00-21:00(月~金→-翌5:00)

【定休日】無休

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11. 味覚

【場所】虎の門駅から301m

【営業時間】昼/11:00-15:00、夜/17:00-23:00

【定休日】日祝

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12. 175°DENO

【場所】銀座一丁目駅から徒歩1分

【営業時間】11:00-22:00

【定休日】無休

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13. キング軒

【場所】芝公園・大門・浜松町駅から徒歩4~6分

【営業時間】昼/11:00-15:00、夜/17:00-20:00(日祝→夜営業無し)

【定休日】土曜

tabelog.com

 

 

それでは皆さん、担々麺屋さんでお会いしましょう。

他にもおすすめあれば教えてもらえると泣いて喜びます。

バケツに水が溜まるように

キュウです!

 

TwitterのアカウントでTokyoSwingさんという方がいらっしゃって、その方がやっておられるブログ「トーキョーハーバー」を読んだ。毎日更新が行われている(すごい)ブログで、けっこう好きなジャンルの話が述べられているため勉強になっている。そこでちょうど、「利他」に対するTokyoSwingさん自身の考えが述べられていて、折しも僕の過去のクソポエム(自分のために生きてやる)が見つかったタイミングだったので、おお、と思って読み入ってしまった。

www.tokyo-harbor.com

 

※ちなみに過去には更に似たような内容をnoteに吐き出したことがある。就活の話なり、「そういう生き方もあるのだと思う」みたいな締め方も似ていて、エントリが心に残ったのはこれが原因かもしれない。笑

note.mu

 

僕なりに纏めると、悩んだ末に結局自分には利他的に生きるような思想は無いのだと気づいて、今は自身の欲望に従って生きることを楽しんでいる、という内容だった。僕自身、よくネットでは「ぼくはぼくのために生きる」とか言い放っていて、またその思想を得てからは非常に生きるのが楽になったと感じていたため(↑のクソポエム読み返しとタイミングが良かったのもあったが)恐縮ながら非常にシンパシーを感じてしまった。ある程度の能力がある人ならばこの思想はたいていの人にマッチするように思うので個人的にはお薦めしたい考え方になる。

 

但し一つ考えなければならないのは「自分のために生きるなら、それに伴う結果も自己責任論」ということだ。当たり前だが何か起きた時は誰も守っちゃくれない。まあ自分のために生きるというのは自分の得になることや好きなことのためなら他人にGiveするという要素を含むわけではあるが、やはり「自分のために」と言っている人よりはそうでない人の方が困った時に他人に助けてもらえる可能性が高いような気がする。

 

気のせいかもしれないがネットで見る人たちは現実世界に疲れたり愚痴をこぼしている人が多い。分類すると自分の目標ややりたいことがあって愚痴っている人("オレはなんて能力が低いんだクソ!”みたいな)と他人への愚痴が主な人に分かれると思う。後者の人はまず他人なんかどうでもいい、と気づくことが自分の心をリラックスさせてくれるんじゃないかな、と。

 

おっと本題から逸れそうだ。感想と自身の経験への投影はここらで終わりにしよう。

 

 

さて二つ目の話題にして本題。

タイトルを「バケツに水が溜まるように」にした所以はこちらだ。

 

僕達は生まれた時から様々な教育を受けてきた。特に幼稚園や保育園、小学校、中学校ぐらいまではみな感情が豊かでケンカやいじめが起こることや、やれ運動会だの遠足だので集団行動をする機会が多いこともあり、「自分がされて嫌なことはしちゃいけません」とか「自分のことだけ考えて行動していると他人に迷惑をかけますよ」というような指導を受けることが数多くあると思う。要は「利他的でありなさい」という教育である。

 

こうした教育なり大人から受ける指導の一つ一つを覚えている人はいないと思うが、どこかの場面でふと思い出すことがある。常日頃から考えていたことだが、誰かの言葉というのは積み重なって自分の中に蓄積していく。必ずしもその場面でその言葉を聞き入れるとは限らないが、それは少なくとも一滴、心のバケツに溜まっていくのだと思う(例え自分がバケツに固く蓋をしているつもりだとしても)。そしてその水が溢れ出す時に人は初めてその指摘を心から受け止めて、受け入れようという気になるのかもしれない。

 

このバケツの特殊な点は、人によって大きさも形も様々だということだ。さらに時によってバケツは伸び縮みし、急に他人の言葉を受け入れようと思えたり、どんなに言葉をかけられても受け入れられないタイミングというのもある。一方で入ってくる水やそれを注ぐ人もなかなかに厄介だ。人によってはどんなに他人のバケツを溢れさせようとしても一滴の水しか注げない人もいれば、簡単な一言で一気にバケツを溢れさせる人もいる。こればかりは人の才能や自分と他人の相性にもよるようである。

 

色々な人の言葉を聞いていると、今は亡き親の言いつけが今になってようやく分かったとか、先生が言っていた言葉を思い出して点と点が線になったとか、そうした「今さらの実感」というのが人生には確かに存在するようだ。僕も昔やっていたサッカーのコーチが厳しく言っていた指導が記憶に蘇ってきたり親のぽつんと言った一言が今になって響いてきたりすることが最近増えてきた。人は歳を取ると色々な感情のバケツが埋まってきて、今までに無かった感情や思いが溢れ出すものなのかもしれない。

 

さて数年前に僕の高校の担任の先生が亡くなった。僕にとって大変な恩師で、この人がいなかったら今の自分の進路は取っていなかっただろうし、むしろクソみたいな生活さえ送っていたかもしれない。なぜ卒業後に一度しか会いに行かなかったのか、と亡くなってから悔やんでも時は既に遅い。先生は決して「指導」をする人ではなく、こちらの言うことを精一杯聞いて、静かに、慎重に言葉を紡ぐ方だった。時にその弱気にも見える態度に僕は頼りなささえ覚えていたことも記憶にある。

 

ところが今になって先生の言葉を思い出して沁みる場面がある。決して自分の意見を押し付けず他人に対して何かを強いることを一切しない、そんな「何も解決しない」他人との接し方は後になってじんわりと効いてくるのだな、と感じている。自分が親や先生、上司といった立場になった際、決して短期的な目線に陥らず「いつかこいつのためになる」言葉をかけていこう、と考えている。

 

"ぼくはぼくのために生きる"の起源

キュウです!

 

今日はずっと迷ってたものをネット上に吐き出してみようと思う。

 

このブログのサブタイトル(?)は "ぼくはぼくのために生きる" なわけだが、この言葉を思いついた時に書きだしていたクソ寒くてクソダサいポエムが突如僕のスマホの中で死体で発見された。

 

恥ずかしいがもう時効だと思って記念に公開しておこうと思う。

 

なんだか読んでいてくすぐったくなるし自分でもキモイと思わされる文章だが、まあアカウントを始めた初期なんかそんなもんだよね、ということで成仏してもらおうという考えに至った次第。

 

=======【以下閲覧注意】=======

 

性分、という言葉がある。


教育や周囲の影響など、後天的に外部環境からの刺激を受けて体得するものではなく、元々その人が持ち合わせている性格のようなものだ。時折、自分の性分について考えることがある。


なぜ自分はあの人と、みんなと違うのか。あの場合に頭をよぎったあの考えは「異端」なのだろうか。みんなと違うことは僕を不安にさせる。やはり人間は周囲と違うことをすることに根本的に不安を感じる生き物らしい。程度の違いはあれど。


自分はみんなと違うのかな。なぜあんなことを考えたのだろう。なぜあの時にあんな行動をしたのだろう。瞬間的に判断をしたあのプレーは正解だったのだろうか。エースのあの人が僕の立場だったなら?


この感情は何だろう?この不安は何だろう?自分は「おかしい」のだろうか。ふざけんなよ、と言われた。ふざけているのだろうか。彼にとって馬鹿馬鹿しく見えた僕の発言は、そんなに変なのだろうか。他の人も同じことを言うのか…?


ひょっとしたら僕だけなのかもしれない、こんなことを考えて行動しているのは。僕の性格がおかしいだけなのかもしれないな。でもこれはきっと、僕の「性分」なのだ。


自分はきっと今いる道からそれほど外れずに生きていくはずだ。それを決めるのは僕自身、辞めるのも僕自身、方向転換しようと思うのも僕自身。その時の判断を支えたり邪魔するのはきっと周りの人の意見や、様々な制約なのだろう。


でも、きっと。僕がその判断を最終的に下す時に寄り添う価値観というのは、直感的な部分なのだろうな。好きとか嫌いとか、心地良いとか悪いとか、美味しいとか不味いとか、そんな直感的な部分、性分なんだ。


他人の判断や指示に基づいて行動をする、それも納得もしていないことに。そんなことは今後一切無くしていきたい。相手に説得されようが、説得されて良し、と自分の中で判断を下すのは自分。わがままを渋々聞き入れると決めるのも自分。ムカつくけど許してやろう、と思うのも自分なんだ。一緒に思えるけど、ここだけは絶対に違うんだ。


これが僕の性分。他人に何と言われようが妥協できない、心の奥底にある価値観。自分の人生は自分で決める。何かあったら全部自己責任。

 

ぼくはぼくのために生きる。

ダサい大人にならないために(行動編)

キュウです!

 

前回の記事の続きです。

kyuu0119r.hatenablog.com

 

これは2019年の抱負の後編になります。

  • 前編:ダサい大人にならないために(心がけ編)
  • 後編:ダサい大人にならないために(行動編)

 

前回、どうしてもなりたい姿が無い僕が、「どうしてもなりたくない姿」を描いてそれを回避していくという消去法的な発想で行動指針/心がけを設定した。今回の記事は具体的にどんな行動をすべきなのか?について述べていきたいと思う。心がけを参考にしながら「ダサい大人にならないために」とるべき行動というものを考えてみた次第。

 

一点申し添えれば、「…しない」というのは行動を述べているように見えて単なる「心がけの亜種」である。したがい、「ダサい大人にならないための」「とるべき行動」を列記することにする(実はこれがけっこう難しい)。

 

<必ず達成したいこと>

  • 2019年12月末までに新規で200万円貯める
  • オーダースーツを2着、コート1着、鞄1個、シャツ3着を買う
  • 本を年間で50冊読む
  • ブログ・通勤noteをそれぞれ50記事更新する
  • TOEIC 900点を取る
  • 仕事でA評価を取る
  • 良い寿司屋に2回は行く
  • 転職活動をして自分の仕事を客観的に見直す機会を早期に作る(6月末までに)
  • 難しい山に登る
  • キャンプをする

 

<できれば達成したいこと>

  • 簿記2級を取る or USCPAを勉強してみる(勉強をスタートし、受験するか否か決める)
  • 体脂肪率10%を切る & 腹筋を割る
  • 起業するとしたら?のアイデアを貯める(事ある毎にどこかに書き込んでおく)
  • バンジージャンプをしにいく
  • ボルダリングを始める
  • ワインの勉強を始める(これは財布との相談)
  • 職場&ジムに激近の家に引っ越す(これも財布との相談・・・)

 

たくさん並びましたね。。これ身バレするんちゃうかというレベルなので日常生活ではしゃべらんようにしよ・・・。「キュウ」はコソ勉アカウントなので現実世界で会う人達にバレたくないんですよね。。。

note.mu

 

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ここからは余談です

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<去年の反省>

えー、まず大変お恥ずかしいことに去年の4月に立てた目標はさっぱり達成できなかった。そもそも何を誓ったのかと言うと、以下の事項である。(特に赤字は今年の達成したいことリストにも入っている)

  1. 腹筋を割る
  2. 仕事外で稼ぐ
  3. ブログの記事を #50 まで伸ばす
  4. TOEIC900 / 簿記2級 / 読書を年間50冊
  5. 仕事で、案件を取る!
  6. 他のことは捨てる

kyuu0119r.hatenablog.com

これらの事項の内、達成できたことは一つしか無い(仕事外で数百円得ただけ・・・)。僕自身年が終わってみて見返すとなんだそりゃ、とずっこけた。というかこの誓いの存在を忘れかけていた。よくもここまで自分勝手に口だけの目標を宙に投げておいて未達成のまま年を越せたものである。お恥ずかしい。大変申し訳ありm・・・という反省の弁はいらない。結局自分が損しているだけだからだ。そういう意味でも前回の記事では今年の心がけとして「気軽にやりたいと言わない」とか「言ったことはやりきる」という誓いを立てたのだ。

  • 他人に嘘をつかない、自分に嘘をつかない
  • 批判をしたなら代案を出す
  • 言ったことはやりきる
  • 軽口を叩いて後で訂正するようなことにならないようにする
  • できないことにYesと言わない
  • やってみたいと軽い気持ちで言わない
  • 責任取れないのに他人にお願いしない
  • あっちに行ったりこっちに行ったりとフラフラすることをやめる
  • 自分にできないことを他人に要求しない
  • 自分にできないことを以て他人を批判しない
  • 他人に要求したり批判したりしたなら最後まで責任を持つ
  • まずは自分がやってみせる、しかも文句を言わせないぐらい圧倒的に

まあ、言ったことを2年連続で守れないというのはダサいのでやるしかないかなあ、と。

 

<一部の事項の詳細説明>

と行きたかったが、昨年散々色々言っておいて守れなかったのでダサすぎてここでは言えないので割愛することにする。

 

以上!今年こそはゆるゆるがんばろうかな~

ダサい大人にならないために(心がけ編)

キュウです!

 

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 

新年の目標をずっと考えていた。「目標の設定の仕方」なる方法論は様々あるが、どうしてもしっくり来ず結局設定するのが5日にまで延びてしまった。長いこと考えた末に、今年の目標はダサい大人にならないために頑張るということにした。こう考えることにしたきっかけは、ダサい大人があまりにも周りに多いということにこの数年で気づいたからであった。同時にこの数年、「自分がなりたい大人像」がハッキリしないということに悩んでいたが、一方で「なりたくない」人はたくさんいるということ、そういった大人になることを避けるだけでもある程度の「カッコいい大人」になれることに、新年早々気づいたのだ。

 

 

そこから身の周りのダサい大人を見て、どうすれば「ダサくなること」を避けることができるのかということを考え、いろんな面を抽出し、「ダサい大人の像」というものを取り出してみた。自分なりに目指すべき像というものはハッキリしない、しかし「避けるべき像」はハッキリさせやすい。そうした考えから今年の目標を定めてみた次第。

 

端的に言えば個別の具体例を抽象化し自身に転用・活用するということであり、同時に消去法で自分の進むべき道を絞っていくということだ。

 

  1. どんな大人を対象にすべきか

これは個人的な考えだが、様々なサンプルを採り上げてみるべきだと思う。なぜなら所属する環境により、人間の質からダサさの定義まで相当の違いが出るからだ。今、或いは近未来で僕が関わる分野と言えば恐らく下記の2つなのでそれらからそれぞれダサい大人の像を拾ってみることとする(様々、と言ったが所属するコミュニティは少なかったw)。

①公:職場でのダサい大人

②私:Twitterでのダサい大人

Twitter以外で僕は一回り上以上の大人と積極的に接することは無い。また、幸い両親は非常に尊敬のできる大人である。

 

  1. ダサい大人はどんな人間なのか

①職場でのダサい大人

これは偏に、「能力/姿勢の不足」であると思う。行動/思考という言い方もできるが行動と言うと「やればできる」のように感じられるので僕が今から論じる「手遅れな大人」には当てはまらない。僕が思うのは僕より一回りも二回りも上の年になって能力が不足している大人/姿勢が不足している大人はもう手遅れだということだ。即ち、”行動”や”思考”を変えればその人が変わるのか、と言うと実質無理なのである。その人の人生は今の勢いのまま慣性の法則でダラダラと進み、大した成果を上げることも無くいつの間にか終わっているのだろう。ハッキリ言ってクソダサい。そんな大人には絶対になりたくないものだ。だって、そんな人生楽しくないじゃん。

 

かの有名なデイヴィッド・ブルックス氏著 “Road to Character” では人間の美徳は「履歴書向けの美徳」と「追悼文向けの美徳」に分かれるとしている。社内で成果を上げることも無く、大して若手から尊敬もされず、プライドばかり高くして他人からは嫌がられ、会社の外での狭いコミュニティの中で酒を飲んで死んでいく人生もありだろう、ただ、僕はその人生は(大変申し訳ないが)リスペクトすることができない。どうしても「ダサい」と思ってしまう。

gendai.ismedia.jp

 

Twitterでのダサい大人

これはもう「口だけの大人」である。Twitterは主に文字だけを介して発信し合う場であり、そうした特性を踏まえると文字をスマホやPCでポチポチ打ってそれっぽいことを発信することは大変簡単である(もちろんその質はその人の知性・技術に依れども)。しかしそれを実際にやっているのかは誰にも分からない。僕の筋トレなんかが良い例である、やりますやりますと言いながら仕事を言い訳にして週1~週2で目覚ましい成果は無かった(もちろん一昔前とはだいぶ変わってはいるのだが)。ひどいのは他人から金を取っておいて、或いは何かしらの労力をかけてもらっておいて何のリターンも無い、という例もある。これは自然とその人の品格とブランドを毀損しているので自業自得、と言えばそれまでであるが、次第に人は去っていく。また偉そうな口を叩いておきながら嘘八百、という人もたくさんいる。そういう人は恐らく自分の心の奥底では分かっていながら「他人から称賛される自分」を手放せないのだろうな、と感じる。結局、言葉だけ綺麗に飾っている人を人は尊敬できないのだと思う。

※こうした点は自分のために参考にするのであって、誰を批判したいわけでも、マウントを取りたいわけでもない。あくまで「人のふり見て我がふり直せ」を実行するための頭出しという位置づけだ。

 

  1. では、どうすれば良いのか

ひたすら、「コレをしない」リストを作って行こうと思う。To Doリストのように「コレをやる」リストは実際に行動を起こす時の具体策であるのだが、しないリストというのは自分の行動を制限するための「心がけリスト」のようなものである(ということでこの記事のタイトルを心がけ編、とした。行動編=コレをやるリストの列挙は次の記事に譲る)。

 

若干話は逸れるが、去年の年始に2018年の目標を立てたことがあった。その時はフランクリン・プランナーの手帳を買ったことがきっかけで、その手帳の後ろに付いていた目標設定シートを埋めてみたものだった。その後に書いた記事に記載した年間目標はさっぱり達成しておらず、そもそも僕が主張する「ダサい」人間に自分をしてなってしまったわけであるが、まあ一先ずやってみた実感としては「目標設定してみて良かったな」ということである。美辞麗句を並べて言えば2018年はPlan→Doまで進んだ段階で、Check→Actionは2019年に行うのだから、今年立てた目標を達成すれば良いのだ。そうなのだ(ダセえ・・・)。

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建前はさておき、今年のざっくりした目標は以下に決めた。

 

 

言ったことはきちんと守る、逆に言えば守れないことは言わない、ということである。要は自分で自分のブランドを毀損しない、というのが主軸だ。まずは守りを固めた上で攻め(To Doの達成)に打って出ようというわけ。

 

さて話は戻り、今年の「コレをしない」リストはこちら。上記のツイートを踏まえた上でこれらを宣言しておきたかった。一部・・・する、という言い方のものもあるがしないリストとして十分にご理解頂けるものと思う。

  • 他人に嘘をつかない、自分に嘘をつかない
  • 批判をしたなら代案を出す
  • 言ったことはやりきる
  • 軽口を叩いて後で訂正するようなことにならないようにする
  • できないことにYesと言わない
  • やってみたいと軽い気持ちで言わない
  • 責任取れないのに他人にお願いしない
  • あっちに行ったりこっちに行ったりとフラフラすることをやめる
  • 自分にできないことを他人に要求しない
  • 自分にできないことを以て他人を批判しない
  • 他人に要求したり批判したりしたなら最後まで責任を持つ
  • まずは自分がやってみせる、しかも文句を言わせないぐらい圧倒的に

 

以上、ここまでが前編になります。カッコいい大人になるには心がけから!知らんけど。