ぼくのQOL向上戦争

ぼくはぼくのために生きる。

バケツに水が溜まるように

キュウです!

 

TwitterのアカウントでTokyoSwingさんという方がいらっしゃって、その方がやっておられるブログ「トーキョーハーバー」を読んだ。毎日更新が行われている(すごい)ブログで、けっこう好きなジャンルの話が述べられているため勉強になっている。そこでちょうど、「利他」に対するTokyoSwingさん自身の考えが述べられていて、折しも僕の過去のクソポエム(自分のために生きてやる)が見つかったタイミングだったので、おお、と思って読み入ってしまった。

www.tokyo-harbor.com

 

※ちなみに過去には更に似たような内容をnoteに吐き出したことがある。就活の話なり、「そういう生き方もあるのだと思う」みたいな締め方も似ていて、エントリが心に残ったのはこれが原因かもしれない。笑

note.mu

 

僕なりに纏めると、悩んだ末に結局自分には利他的に生きるような思想は無いのだと気づいて、今は自身の欲望に従って生きることを楽しんでいる、という内容だった。僕自身、よくネットでは「ぼくはぼくのために生きる」とか言い放っていて、またその思想を得てからは非常に生きるのが楽になったと感じていたため(↑のクソポエム読み返しとタイミングが良かったのもあったが)恐縮ながら非常にシンパシーを感じてしまった。ある程度の能力がある人ならばこの思想はたいていの人にマッチするように思うので個人的にはお薦めしたい考え方になる。

 

但し一つ考えなければならないのは「自分のために生きるなら、それに伴う結果も自己責任論」ということだ。当たり前だが何か起きた時は誰も守っちゃくれない。まあ自分のために生きるというのは自分の得になることや好きなことのためなら他人にGiveするという要素を含むわけではあるが、やはり「自分のために」と言っている人よりはそうでない人の方が困った時に他人に助けてもらえる可能性が高いような気がする。

 

気のせいかもしれないがネットで見る人たちは現実世界に疲れたり愚痴をこぼしている人が多い。分類すると自分の目標ややりたいことがあって愚痴っている人("オレはなんて能力が低いんだクソ!”みたいな)と他人への愚痴が主な人に分かれると思う。後者の人はまず他人なんかどうでもいい、と気づくことが自分の心をリラックスさせてくれるんじゃないかな、と。

 

おっと本題から逸れそうだ。感想と自身の経験への投影はここらで終わりにしよう。

 

 

さて二つ目の話題にして本題。

タイトルを「バケツに水が溜まるように」にした所以はこちらだ。

 

僕達は生まれた時から様々な教育を受けてきた。特に幼稚園や保育園、小学校、中学校ぐらいまではみな感情が豊かでケンカやいじめが起こることや、やれ運動会だの遠足だので集団行動をする機会が多いこともあり、「自分がされて嫌なことはしちゃいけません」とか「自分のことだけ考えて行動していると他人に迷惑をかけますよ」というような指導を受けることが数多くあると思う。要は「利他的でありなさい」という教育である。

 

こうした教育なり大人から受ける指導の一つ一つを覚えている人はいないと思うが、どこかの場面でふと思い出すことがある。常日頃から考えていたことだが、誰かの言葉というのは積み重なって自分の中に蓄積していく。必ずしもその場面でその言葉を聞き入れるとは限らないが、それは少なくとも一滴、心のバケツに溜まっていくのだと思う(例え自分がバケツに固く蓋をしているつもりだとしても)。そしてその水が溢れ出す時に人は初めてその指摘を心から受け止めて、受け入れようという気になるのかもしれない。

 

このバケツの特殊な点は、人によって大きさも形も様々だということだ。さらに時によってバケツは伸び縮みし、急に他人の言葉を受け入れようと思えたり、どんなに言葉をかけられても受け入れられないタイミングというのもある。一方で入ってくる水やそれを注ぐ人もなかなかに厄介だ。人によってはどんなに他人のバケツを溢れさせようとしても一滴の水しか注げない人もいれば、簡単な一言で一気にバケツを溢れさせる人もいる。こればかりは人の才能や自分と他人の相性にもよるようである。

 

色々な人の言葉を聞いていると、今は亡き親の言いつけが今になってようやく分かったとか、先生が言っていた言葉を思い出して点と点が線になったとか、そうした「今さらの実感」というのが人生には確かに存在するようだ。僕も昔やっていたサッカーのコーチが厳しく言っていた指導が記憶に蘇ってきたり親のぽつんと言った一言が今になって響いてきたりすることが最近増えてきた。人は歳を取ると色々な感情のバケツが埋まってきて、今までに無かった感情や思いが溢れ出すものなのかもしれない。

 

さて数年前に僕の高校の担任の先生が亡くなった。僕にとって大変な恩師で、この人がいなかったら今の自分の進路は取っていなかっただろうし、むしろクソみたいな生活さえ送っていたかもしれない。なぜ卒業後に一度しか会いに行かなかったのか、と亡くなってから悔やんでも時は既に遅い。先生は決して「指導」をする人ではなく、こちらの言うことを精一杯聞いて、静かに、慎重に言葉を紡ぐ方だった。時にその弱気にも見える態度に僕は頼りなささえ覚えていたことも記憶にある。

 

ところが今になって先生の言葉を思い出して沁みる場面がある。決して自分の意見を押し付けず他人に対して何かを強いることを一切しない、そんな「何も解決しない」他人との接し方は後になってじんわりと効いてくるのだな、と感じている。自分が親や先生、上司といった立場になった際、決して短期的な目線に陥らず「いつかこいつのためになる」言葉をかけていこう、と考えている。