ぼくのQOL向上戦争

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認知的不協和の好例を見た話

キュウです!

 

ちょっと面白いことがあったのでブログを更新。

 

僕はテレビをあまり見ないのだが、どうやらニュースで議論が議論を呼ぶ話が流れていたようだ。

 

  

ちょっとググってみると(興味は無いので真偽は分からないが)会田誠さんという方の美術講座で嫌なものを見せられた女性が訴訟を起こしたというものだった。こんなクソどうでもいいことで他人を訴える暇人というものがいる日本は平和である。

news.nifty.com

 

 

最初に僕が思ったことは、「ああ、こういう人いるよね」だった。僕の周りにも数人いるけど基本的に距離を取っている人種たちである。こういう人には何を説明しても無駄で、単に付き合いを避けるべき人たちだと思っている。

 

認知的不協和とは?

話は少し変わり、認知的不協和という心理学用語をご存知だろうか。Wikipediaによれば、以下の意味だそうだ。

人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、自身の態度や行動を変更すると考えられている。

ja.wikipedia.org

 

簡単に言えば矛盾する2つの認知があって、それをうまく処理しきれずにある方向に思い直すという心理的な逃避行動(防衛機制)の一つで、この場合も同じ心理的な変遷がこの女性の中であったものと思われる。

 

こうなっては基本的にその人の思考は(一人では)変えられないのが厄介なところである。なぜなら「ワタシガタダシイ」とか「ヨノナカガマチガッテイル」というのが認知的不協和を起こすタイプの人間の思考の根本にあるからだ。

 

僕が言いたいこと

…とまあ批判記事のようになってしまったが、僕は別にこの女性一人を責めたいわけではない。というのも、こういう人はたくさんいるからである。そもそもこういう救いようのない思考の人の数が少ないのであれば世の中もっと良くなっているはずで、そうでないからこそ、世の中なかなか良くならないのである。

 

僕らが考えるべきは、 ”芸術がどうあるべきか” とか ”表現の自由がどうあるべきか” とかいう話ではなく、どうしたら「あちら側」の人間にならずに済むのか?どうしたら「あちら側」の人間に巻き込まれずに人生を過ごして行けるのか?ということだ。

 

もっと言うと、僕らの人生は必然的に、突然知りもしない女性に痴漢だ強制わいせつだと騒がれたり、関係ない上司の失敗をあいつのせいだと責められたりするリスクがある。究極的に言うとそうしたリスクは100%排除するのは非常に難しい。結局人生なんて運ゲーなのか…と落ち込まないために、僕らはこのリスクを低減させていく必要があるのだ。

 

どうしたら「あちら側」の人間にならずに済むのか?

さて、まず真っ先に避けるべきなのは、「あちら側」の人間になってしまうことだ。「あちら側」に行ったら最後たぶん帰って来られない。あまり人間の思考と言うものは変わらないし、変わったとしても不可逆的(正反対には変わらない)だからだ。

 

【ご参考】「あちら側」の人間と言うのは他人の足を引っ張り、「他人の道徳的不正を罰することで快感を覚える」人種である。こうなってしまったら戻れない。「正義は最大の娯楽」だからだーーーーー。

 

※例①フェミニストが過剰なまでに男性を叩くのは「正義は最大の娯楽」の例の一つだ。

※例②非モテ男性が世を恨んで事件を起こすのは認知的不協和の例の一つ。どうしても ”世間” が許せず誰でも良いから事件を起こしたくなってしまうのだ。

 

 

では、どうすればあちら側の人間にならずに済むのか。

 

月並みで申し訳ないのだが、高い目標を持ち、それに没頭することが大事なのではないかと思う。上の例で述べたフェミニストなんかも、男性を叩くことに並々ならぬ決意と没頭を見せているものだが、別に高い目標があってそれに没頭しているというわけではない。

 

自分のプロダクトを死んでも作ってやるとか将来絶対に世界に出て働いて稼いでやるとか、彼女を死んでも幸せにしてみせるというような高い目標を持った人は他人を叩く暇なんかたぶん無いし、そもそも他人に興味が発生しないものだと思う。やりたいことが明確でそこだけを見ているので、例え変な写真を突如見せられるという直接的な被害があったとしても(ショックは受けるかもしれないが)そのことは自分の中での優先度が低く、わざわざ訴訟を起こすとかいう面倒なことは起こさないと思うのだ。

 

とはいえ、本当に自分が「あちら側」ではないのか?というのをどう判断するのか分からなくなってしまう時が来るかもしれない。自分がいつかクソジジイになって思考が固まって暇になったら他人叩きを始めてしまうかもしれない。たぶん、その時に自分に問うべき問いは、「自分に嘘をついていないか?」「自分に言い訳をしていやしないか?」である。

 

自分に言い訳をしてやりたいことを封印していないか?

自分に嘘をついていまの現実を他人のせいにしていないか?

自分に言い訳をして他人を叩くことを正当化していないか?

 

 

“自己責任論” に潰されないために

最後に一つだけ補足したい。

 

僕も含め大半の人間は心が弱い生き物だ。現実世界で嫌なことが起こったら本の世界に入り浸ったり、トイレに籠ったり、カラオケで叫んだりする等、何とかして心を保つ方法を持っている人もいるが、そうでない人もいると思う。

 

そんな人が「いま起こっていることは自分のせいで、この感情を他人のせいにすることは認知的不協和で、それは良くないことで、…」と考え始めてしまうとそれもそれで相当に苦しいことになると思う(僕も基本は自責思考なので上手くいかないと自分を責めてしまう)。

 

そんな人が考えるべきは、「他人のせいにするのは最終手段」と思っておくことなのだと思う。それは “絶対に” ダメだと思ってしまうと苦しいので、他人のせいにして逃げることを手段として確保しておくことは、それはそれでありなのだと思う。とはいえ、厳しいかもしれないが、まずは上に述べたようにある時は現実を改善できる方法を考えて実行したり、カラオケで叫ぶ等の自己救済策を持つように努力したりするのが先決と個人的には思っている。