ぼくのQOL向上戦争

ぼくはぼくのために生きる。

思考の渦 #8

キュウです!

 

クリスマスですね。街を歩いていると都心と郊外における「人の見た目のレベル」の違いに驚く。銀座を歩いている人たちと新宿を歩いている人たち、川崎を歩いている人たちの見た目のレベルが全然違うのだ。もちろん人種の層も違うが、顔やファッションのレベルが違う。なぜこんなにも「人」が違うのかという点に興味をそそられる。

 

田舎に行けばそこで、さらに田舎の中でもショッピングモールと観光地と住宅街と、、、それぞれの場所で人の「色」が違ってくることに最近、気づきつつある。僕は東京住まいなので、東京だと、23区と23区外のように圧倒的に違った地域が広がっており、そりゃ、行く場所行く場所で人が大きく違うよなあ、というのは感覚的に分かっているところなのだが、どうやら田舎(とりあえず、日本の地方都市、としておこうか)でも同様の現象が存在するようなのだ。

 

やはり人口の偏りが生じる現象というのは日本全体(地方→東京や大阪など)でも起こるし、一地方地域の中でもさらに起こるものなんだなあという印象だ。まあ、しょうもない話だが、自分の中での気づき、ということで。

 

 

さてーーーーー。

 

ふと、何かを強く思い出す時がある。急に頭の奥に誰かの笑顔が浮かんできて離れなくなることや、中学校の先生の歌声が耳について何かに集中できなくなること、過去のスポーツでの失敗を思い出してふとあの時ああしていれば…という妄想で黙り込んでしまうこと、ロマンチックで燃え上がるような一夜の記憶で仕事中にムラムラしてしまうことまで。レベル感は様々だが、どうしても僕の頭から何かのイメージが離れなくなることが定期的にある。

 

それは上で述べたように本当にどうしようもないただの「邪魔なイメージ」として浮かぶものもあれば、僕の中で大事に大事に育てていた素晴らしい思い出であることもある。急に頭に強く浮かんでは消えるものなので自分でも制御できないものだ。

 

なぜ、このようなイメージが急に僕の思考や仕事や作業を邪魔するのかは分からない。世の中の物事は必ず原因と結果という事象に分解できる、という因果律に立って考えるならば、僕の脳裏をよぎるこの邪魔なフラッシュバックの裏には必ず起こる原因があり、何らかの理由を持ってこの事象は起こさせられている、と考えることができよう。

 

つまり、この「過去イメージのフラッシュバック」は「自分にとって必要だから(自分の脳が)起こしている事象である」(原因=何らかのフラッシュバックの必要性を伴った思考→フラッシュバック)、あるいは「自分の脳内で当該事象を起こすことによって何かの"結果"を起こしたいのだ」(変なこと思い出して感傷にひたる、トカ)ぐらいに勝手な解釈をすることができる。

 

果たして意味が分からない日本語になってしまったが、要はなんで、こんなフラッシュバックが急に起こるのかはさっぱり分からないということだ。ただ何となく起こされるというよりは理由があって、何らかのきっかけを伴って発動される事象である、と解釈する方が圧倒的に気分が良い、という点にポイントがある。

 

すなわち、良く分からない事象に対して良く分からないもの、と漠然と考えて頭の片隅に置いておくよりは、人間は無理やりにでも分析した風なことを言って解釈を付け加え、ラベルを付けて、分類をして頭の中で整理しておく方が好きなのかもしれない。これは僕の悪い癖で、「それっぽいこと」を言って言語化して(分類して)物事を色分けしておくのが好きなのだ。その方が自分が分かった気になるからだ。要領を得ない説明だとしても、分からないことに対して、世界に対して幾分か賢くなったような気にさせられる、そんな自己正当化が好きなのかもしれない。

 

ただし、これは大抵の人間がそれを好きであるということを僕は主張したい。会社で上司に予算を説明するとしよう。来年度の売上はこうこうこの程度立つ見込みです、と報告するとする。その際に報告の中身にはその売上の内訳が書いてある。Aさん〇百万円、Bさん◇百万円、Cさん△百万円、合計で☆千万円の見込みです、と報告するわけである。この中で上司はAさんが本当に〇百万円を上げられるのか?あるいはもっと上がらんのか?ということを具体的にヒアリングしてゆくことになるが、まずAさんが聞かれるのは何の案件でいくらずつだ?という点だ。〇百万円の内訳はαという案件で■百万円、これが目玉で、β案件で◎十万円です、あとはコマイγ案件やらいろいろ合わせて合計が〇百万円になります!というのがこれの答えになる。

 

当たり前だが上司は予算の全てを頭に入れていることはほぼ無い。代わりにざっくりとした帳簿が頭の中にあり、それの収支が合う以上細かいことは気にしない、というタイプが多い(少なくとも僕の経験上)。そんな中でどのように上司に対し説明をつけるのが手っ取り早いのか。僕は、上で述べたように「内訳に色を付けていく」のがポイントだと感じている。全体予算をざっくりと数個の部分に色分けをし、メイン・サブメイン・サブぐらいに区分けを決めてゆく。とても簡単なことだが、色付けを赤・オレンジ・黄色ぐらいに分かりやすく付けていってしまうことが後の作業を楽にする。

 

まあ、話がそれたので元に戻すと、要は人は安心したい生き物である、ということを念頭に置くと、上記の予算付けの話でも、フラッシュバックを僕が勝手にそれっぽく定義づけてしまう話も通じてくる部分があって、やっぱり、人は良く分からないものをそのまま置いておくということが本質的に怖いのである。部署での予算策定など現状僕一人に数字づくりが任されているが、上司に説明するときはひたすらこの「区分け+色付け」を意識する。アレとコレとソレの案件が今の部署の柱で、ざっくりとアレがいくら、コレがいくら、ソレがおくら儲かります、具体的に言うとアレは確度の高いもの(確度A)が約3分の2で…という具合だ。これをすることによって上司の頭の中でかなりざっくりとした帳簿が出来上がり、調整弁をどこに置くか、そもそも来年度は上向きなのか下向きなのか、といった点が像を帯びてくる。説明をするにつれて上司が安心していくのが分かるわけだ。

 

これを支えるのが上で言った「区分け+色付け」というわけだ。当たり前のようなことだが、意識してやってみるとけっこう面白く、何かしらの不安要素を抱えている際にはこの作業をみんなで行っていることが多いことに気づく。問題の分解と切り出し、ポイントを定めてそこにリソースを集中する等。要は全部同じだ。

 

さてさてフラッシュバックという視点で、さらに話を戻そう。

 

今日僕は急に学生時代によく通ったラーメン屋を思い出した。確か大学2年生の時ぐらいにできた、煮干しの背油ギトギトラーメンを出す店だった。そこが本当に美味しくて美味しくて、僕は当時もう何度も通ったものだった。

 

大学の友達などと飲みまくってへろへろになりながら食ったラーメン。酔っていて器の中身にしか記憶は無いが、店主には優しくしてもらったものだった。酔ったまま後輩数人を連れて行って、閉店後に店を開けてもらったこともあった。あの時代の数千円おごり、という財布の痛みには後々頭を悩ませたものだったなあ。それでも、何度も通ったものだった。油そばも、特製ラーメンも、季節限定の味噌ラーメン風も、何を食べても美味しかったなあ、ということまで。

 

 ふと、急に、当時を思い出したことに理由は無理やり付けたくないな、と思う。僕の中での美しい思い出は誰にも変えられない。決定的な過ちを犯してしまった夜、ラーメンを食った後につけ麺を注文して全部食べ切って全部吐き出した夜、友達と徹底的に議論して喧嘩別れした夜…、思い出すのは大抵良い話とは言えないものばかりだが、全部僕の中で美しい心象風景に変換済みだ。これを変に理論づけして「色」を付けたくない。

 

過去の思い出や見た風景は僕の中で少しずつ色褪せながらも、ずっと残ってゆく。今になって思い出して、ああ、あの時あいつはこう言いたかったのかとか、自分の心情はこうだったのかもしれないとか、当時に解釈が加わることはあれど、これを思い出す行為自体にむやみに手を付けたくないのだ。

 

同時に、これからも美しい記憶を積み重ね、後になってこうして懐かしく感傷にひたれるような思い出を残してゆきたいものだと思っている。